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FACT. & Arkitip Presents “IN THE STREETS” W/ GRANT BRITTAIN

August 24,2017

FACT.、Arkitip、J・グラント・ブリテン、マイク・Dが見せた、’80年代、’90年代の音楽、スケートボード、アート、ファッションの世界観

From FLJ ISSUE 55(07.31.2017)

PHOTO: cherry chill will

FACT.とArkitipのパートナーシップから生まれた、6種類のTシャツからなるカプセル・コレクションが発表された。J・グラント・ブリテンのアイコニックなスケートボード写真と、その写真をキャンバスとして使ったグラント自身の手書きのストーリー。いくつものレイヤーを重ねたデザインはカラフルで力強く、オリジナル・カラーで染め上げられたヘヴィウェイトTシャツは、すべてロサンゼルスで生産されたものだ。このコレクションのリリースを記念して、6月23~25日の3日間限定、BA-TSU Art Galleryで開催されたイベントがスゴかった! その名も「IN THE STREETS」。グラントの’80年代のスケートボード写真の大判プリント30点の展示・販売。世界屈指のスケートボード・コレクションを有するSkatelabの貴重な’80年代のコンプリート・デッキのインスタレーション。さらに23日のオープニング・レセプションでは、ビースティ・ボーイズのマイク・DがDJを務めたのだ! これはブランド「FACT.」のローンチ・イベントでもある。



デイモン・ウェイ × ブランドン・デイ × マイク・D

DC SHOESの共同創業者にして、Droors、Eightball、Dub、Blunt Magazineも手がけてきたデイモン・ウェイ。そして、The Generic Manの共同創業者であるブランドン・デイ。この二人が2016年6月に立ち上げたのがブランド「FACT.」だ。このブランドのクリエイティヴの根底には、’80年代、’90年代のサブカルチャーとDIY精神がある。一方、マイク・Dはご存知ビースティ・ボーイズのメンバーにして、’90年代はブランド「XLARGE®」の立ち上げに関わり、自らレーベル「GRAND ROYAL」を主宰し、雑誌とアパレルも手がけた、まさにストリート・カルチャーのアイコン。この三者の対談を通して、三者三様のストリート・カルチャーのバックグラウンド、そこから今回の「IN THE STREETS」に至るつながりを読み取ってもらえればと思う。


FACT.を手がけるデイモン・ウェイ(右)とブランドン・デイ


マイク・D

FLJ それぞれが知り合ったなれそめから聞きたいんだけれど。
マイク・D 大野が昔、G-Sonスタジオによく来ていた頃の話なんだけど(’90年代前半)、当時グランド・ロイヤルで働いてたパムという女性がいてね。数年後にデイモンがDC SHOESを立ち上げた時に、パムがDCで働き始めたんだ。「うちのボスがビースティ・ボーイズのこと大好きなのよ」って言ってきて、DCのシューズが送られてきたんだ。でも実際にデイモンと会うことになるのはさらに数年後のことで。僕がマリブに引っ越してきた時に、共通の友人を通して出会ったんだ。住んでいるところも近所なんだよ。
デイモン・ウェイ(以下、デイモン) 近所に自分と同じような音楽の趣味、同じような音楽の遍歴を持った人と知り合うことができて最高だと思ったね。ブランドンとの付き合いはさらに昔に遡るよ。出会ったのは’90年代後半のサンフランシスコで、当時ブランドンは雑誌「XLR8R」で写真を担当していた。僕とブランドンは撮影の時に出会ったんだけど、極寒の中、ほぼ全裸の女の子たちが子供用のプールに飛び込むような撮影だった(笑)。その時以来の友達だね。彼はいろいろなブランド、会社で働いてきて、The Generic Manというハイエンド・スニーカーのブランドの共同創業者となった。最初二人でFACT.を立ち上げた時は、フットウエアを手がけようと思ったこともあるんだけど、それは違うってなって、アパレルにフォーカスしようってことになった。FACT.というブランドで表現したいのは、スケートボード、音楽、アートなんだ。そこには’80年代、’90年代の目線を通している。
マイク・D さっきデイモンが面白いことを話していたよ。当時のインスピレーションやヴァイブス、エナジーを今の時代の文脈に置き換えるっていう話。
デイモン DIYのクリエイティヴの精神だね。’80年代、’90年代からインスパイアされたものを未来に向けた表現に変換していきたいんだ。FACT.っていうのは、実はファクトリー・レコードのことなんだ。ニュー・オーダーの最初のレコードのジャケットに「FACT 50」って書かれていて、ブランド名はそこから来ているんだ。ピーター・サヴィルが手がけたジャケットの美学だよ。でも今回、東京のショーで親友のマイクに音楽面を担当してもらえることになったから、完璧だと思ったよ。

FLJ マイクはカルチャーのアイコンとして完璧だからね。
デイモン もう何十年間、そうだからね。完璧だよ。

FLJ ミスター・アイコンだから。
マイク・D マイコンと呼んでくれ(笑)。DJマイコン。

FLJ ’80年代、’90年代と一言で言っても、それこそ音楽にしても多様だよね。キッズの時から好きだったカルチャーのバックグラウンドを聞きたいんだけれど。
デイモン 10代の時にパンクに出会って、もう胸ぐらをつかまれた感じだったね。UKサブス、エクスプロイテッド、FEAR、サークル・ジャークスといった’80年代初頭のパンクを聴きまくった。しかもそれがスケートボードと見事にハマった。そこから’90年代インディ・ロックにハマって、クラウト・ロックやガレージ・ロックもディグった。’70年代の音楽や’80年代のポスト・パンク、ノー・ウェイブあたりのアンダーグラウンド・ミュージックも聴いた。そういうものの組み合わせが今僕がやっていることのものの見方を形作ったと言えるね。スケートボード、アート、音楽。エクスペリメンタル・ミュージックからの影響も大きいね。ベルリンのアンダーグラウンドとかダークなテクノが好きなんだ。
ブランドン・デイ(以下、ブランドン) 僕の音楽バックグラウンドも似ているね。僕はサンノゼのキャンベルのタワーレコードの近所で育ったんだ。’80年代のパンク・ロック、バンドのFaction、スケート・ロックが好きだった。当時、音源を手に入れるにはレコードを買うしかなかったから、人からオススメのレコードを教えてもらったら、もう買いまくっていたね。レコード店に行くと、とにかくイギリスのパンクを漁っていた。一方で、サンノゼにはスケートのシーンもあったし、親父がサンタクルーズでサーフィンをしていたから、僕もサーフィンをやっていた。自分のパンク・バンドもやっていたよ。そういったものすべてがミックスしていたね。
デイモン 僕は14~15歳の時はまだヒップホップにはハマっていなかったんだけど、ビースティ・ボーイズが登場した時に、元々はパンク・バンドだったっていうのを知って、ヤバイと思ったね。
ブランドン 僕が初めてビースティ・ボーイズを観たライヴでは、フィッシュボーンがオープニングで、ラッパーがオープニングじゃないんだ?!って思ったね。
マイク・D NYハードコア・バンドのマーフィーズ・ロウもオープニングだったね。
デイモン 西海岸のパンクは聴いてたの? 7セカンズとかは?
マイク・D 7セカンズは少し聴いてたよ。ブラック・フラッグの初期は好きだね。サークル・ジャークス、あとFlipperも好きだった。

FLJ 西海岸のパンク、好きだったんだ?
マイク・D それまではポスト・パンクと呼ばれるものをひと通り聴いていたよ。ギャング・オブ・フォー、スリッツ、ラフ・トレードもの、ヤング・マーブル・ジャイアンツが好きだった。そこにバッド・ブレインズがNYに来て、ショーをやるようになって、アダム・ヤウクも僕もライヴを観て完全にトバされた。どんなバンドよりもラウドでファストだったし、HRはステージでバク宙をやっていた。ありとあらゆるものよりも先のネクストレベルに行っていたね。バッド・ブレインズにヤラれてまくって、マイナー・スレット、SOAとか、他のワシントンDCのバンドも聴き始めたよ。そこから西海岸のバンドを聴き始めた。だけどある時点で、僕らバンド全員がヒップホップを聴き始めるようになった。ハードコアはこういう格好で、こういうことを歌うべきだっていうルールみたいなものができてしまって、それで興味をなくしたんだ。最初は自由を謳っていたのにさ。そんな時にラップに出会って、何だこれは?と思ったよ。そこでは全く新しいものが生まれていたね。それで僕たちもヒップホップをやりたいと思うようになったんだ。
デイモン ハイスクール時代を思い出すと、クラスのみんなが「ブラス・モンキー」にハマってたな。
マイク・D あの時代はヤバかったよ。最初のレコードを出して、突然たくさんのキッズがライヴを来るようになって、マジでビビった。これはブレイクが必要だなって思ったよ。どういうファンに向けてやってるのかわからないまま人気が出てしまったからね。だから自分たちの自由を手に入れて、ファンのことを気にせず自分たちの作りたいものを作れるような環境が欲しくなったんだ。
デイモン それでまた楽器を手にして音楽作りを始めたわけだ。
マイク・D ブレイクの後、最初に作ったレコードは『ポールズ・ブティック』だった。「ブラス・モンキー」や「ファイト・フォー・ユア・ライト」が好きなファンに気に入ってもらえるかどうかなんて関係なかった。
デイモン そこにはパンク・ロックの自意識から来る罪悪感でもあったのかな?
マイク・D もちろんあったと思うよ。自分の大好きなものを作らなきゃいけないっていうね。当時、いろんな方向性があったし、やりたいこともいろいろあった。潜在意識の中では「同じことを繰り返しやりたくない」っていうのはハッキリしてたんだろうね。
デイモン リスペクトはずっと欲しかったんだろうね(笑)。
マイク・D だろうね。それで、大野と知り合う頃(1991年)には、もうきちんと自分たちのやるべきことに取り組んでいたよ。ハードコアもやれば、楽器もプレイする。それに僕らはもうビッグなバンドじゃなかったから、ライヴも1万5000人の前じゃなくて、1500人の前でプレイしていた。でもそこからはごく自然にオーガニックに進んでいったよ。
デイモン 僕たちがFACT.をやるモチベーションはもう一つあるよ。今の若者って、一夜にして何でも吸収しするし、カルチャーの中に身を置くことなく、まるでドライブバイのように何でも遠隔操作で経験をしたつもりになっていると思うんだ。だけど僕たちは、サブカルチャーそのものに参加するところから始まって、自分たちの美学、クリエイティヴィティ、ムーヴメント、カルチャーを作ってきた。それって、インスタグラムを見て、「ワオ、パンク・ロックってクールだ!」って一瞬思って、でも次の瞬間には消えてしまう、そういうようなものとは対極にある。そこには何の深みもないからね。今の若い子がやっているブランドを見ていると、遠隔操作でテーマを扱っている感じがして、自分の経験から作ったものには見えないんだ。まあこれは僕の考えであって、若い子には関係ないかもしれない(笑)。だけど少なくともそれが僕のやる気にはつながっているよ。

FLJ リアルなものを見せていきたいんだね。
デイモン どうだろう。ただ僕には言いたいことがあるし、ブランドを通じてコミュニケーションをしたいんだろうね。少なくとも僕は参加しないで待機しているつもりはないよ。今はいろんなクリエイティヴがホンモノからではなく、何もないところから生まれているのを見ているわけだから。
ブランドン だからこそ、今回やるショーも、’80年代、’90年代に現場にいて、アイコンとなった写真を撮影してきたレジェンドと組んでるわけだしね。実際にショーの会場に足を運んでもらえれば、J・グラント・ブリテンと話もできるし、彼の写真も見れるし、さらに’80年代のスケートボードの展示も見れるわけだから。しかもDJはマイク・Dなんだよ。
デイモン 今回展示するスケートボードは実際に’80年代にキッズが買って使っていたボードで、レールもステッカーも付いたままで、そこもまたカッコいいんだ。そういうマチガイないものを見せたいんだ。僕たちには伝えたいことがあって、それをブランドという乗り物を使って表現しているから。

FLJ ファッションのことも聞きたいんだけれど。キッズの頃から好きだったファッション、その後ファッション業界で立ち上げたブランドのこと、そこからFACT.に至る道を聞かせてもらえる?
デイモン 最初にファッションを意識したのは12歳の時かな。あるパンツが欲しくて、そこにVANSのハイトップを合わせたくて。それでスケートのTシャツにもマーカーで何か描き始めた。それが個性の目覚めなんだろうね。他にはない、自分だけのものが欲しかった。10代の時はそこを追求したよ。それで、僕はスケート・パンクだったんだけど、ジェーンズ・アディクションのライヴを観て大きく影響を受けたね。アルバム『ナッシングス・ショッキング』を聴いてトバされ、すぐに白黒のストライプのレギンスを履いて、その上にカットしたジーンズを合わせて、デニムジャケットを着て、パープルのドクターマーチンを履いて、超ロングヘアにした。
マイク・D 白いドレッドにはしなかったの?(笑)
デイモン それはないんだけど(笑)。でも音楽のインパクトがそれだけ大きかったんだ。みんな強烈な個性の持ち主だったから。ペリー・ファレルはフリークだったし、大好きだった。でもレギンスを履いていたのは1年ぐらいかな(笑)。そこからDroorsを始めることになった。
マイク・D Droorsは真逆だよね。スーパー・オーバーサイズで。あれはヒップホップとスケートだったよね。
デイモン 常に音楽とスケートがテーマだから。
マイク・D 当時の僕らの写真を見ると、どれもオーバーサイズのファッションなんだ。何を考えていたんだろう?って思うよ(笑)。ショーツなのに30インチも丈があってさ。
デイモン シャツもXXLだしね。ブランドンはもっとハイファッション寄りだよね。
ブランドン キッズの頃はサーフィン、スケート、モッズをミックスしていたよ。
マイク・D それはどうやってクロスオーバーさせてたの? 今でこそ新しいシーンがあって、オレンジ・カウンティでは、サーファーがサーファーのファッションを避けて、スーパーモダンな格好をしていたりするんだけど。
ブランドン 僕はモッズのファッションをしたくて、だけどスケートも好きだったからVANSを履いて、スペシャルズのパッチを付けていた。ハイスクール時代、モッズのシーンは大きかったんだ。
デイモン 学校にはパンク、スケーター、モッズ、ゴスがいたね。ゴスの女の子はかわいかった。
ブランドン ゴスの女の子とデートしてたね(笑)。それでシューズの会社で仕事をするようになって、イタリア、ポルトガルに行くようになって、コム・デ・ギャルソンのようなブランドとも仕事で関わるようになった。でもハイファッションって、僕にとってはあまり根っこを感じさせないものなんだ。ファッション業界の人間と話していても深みを感じない。それにハイファッションって、もう毎シーズン、全く違うものを作るわけで、あるシーズンではグラフィティのプリントものだったのが、次のシーズンにはすべてブラック一色になったりする。シーズンからシーズンへのつながりがないんだ。だから、今の僕はデイモンと組んで、スケートとファッションという自分のバックグラウンドに戻って仕事をしている。スケートボードってスゴく純粋なんだ。スケーターって毎日スケートすることしか頭にないしね。
デイモン それに、スケーターって前の世代を超えていくから、このサブカルチャーは常に進化し続けているんだ。FACT.も立ち上げて18ヶ月経つんだけど、常に進化しているよ。表現したいことはたくさんあるし、これはサブカルチャーだと言っていいね。

FLJ マイクは前にGRAND ROYALのアパレルの復刻をやるって言っていたけれど、どうなったの?
マイク・D まだやるには至っていないんだ。だけど、ビースティ・ボーイズのアニバーサリーものには取り組んでいるよ。Tシャツも作る予定だし、アドロックとはビースティ・ボーイズの書籍にも取り組んでいる。出版されるのは2018年だよ。

FLJ FACT.の今後の予定は?
デイモン 今はブランドの基礎固めをしているところだね。このまま進化して、’80年代、’90年代の目線で音楽、スケートボードをアパレルに落とし込んでいきたい。カットソー他、新しいアイテムも出していく予定だ。それで来年には大きなパンク・エキシビジョンをやろうと思っている。「Fucked Up + Photocopied」を手がけたブライアン・レイ・ターコットと組んでやるんだ。フライヤー、Tシャツ、ジャケット、アートワーク、いろいろある。それが次のプロジェクトになるね。あと、マイクともプロジェクトをやるよ。

FLJ マイコン・プロジェクト?
マイク・D それだね(笑)。

FLJ 明日のDJではどういう曲をプレイするの?
マイク・D FACT.のインスピレーションだから、’80年代、’90年代という時代は意識するよ。そこでピンと来たものをかけていくつもりだよ。

FLJ シカゴのゲットーはかけないの?
マイク・D かけたいんだけど、明日はかけないな(笑)。
デイモン ノー・ウェイブ、ポスト・パンク、初期のラップだね。’80年代のエクスペリタメンタルとか。僕自身はドローン・テクノとかかけたいんだけど、明日はかけないな(笑)。

FLJ 最後に一言。
デイモン モノ作りを続けることだね。それが僕のやる気につながっているから。
マイク・D DJマイコンから一言(笑)。モノ作りをやる時は、ハッピーになること。
デイモン マイクがDJマイコンになったということで、一つ提案があるんだけど(笑)。二人のチーム名を新たに “Signal To Noise” にしたいんだけど、どうかな?
マイク・D OK! ということは、レーベル名は間違いなくRatioだね!(注:signal-to-noise ratioで、「SN比、信号対雑音比」という用語になるから、これはそういうジョーク)
一同 爆笑



J・グラント・ブリテン × スコット・A・サンタンジェロ

J・グラント・ブリテンと言えば、僕(大野)にとってはスケートボード業界の大先輩、トランスワールドの大先輩である。1983年の雑誌「トランスワールド・スケートボーディング」の創刊に関わり、2003年までフォト・エディターを務めてきた大レジェンド・フォトグラファー。2003年からはThe Skateboard Magを創刊させ、つい最近まで在籍していた。グラントの写真はスケートボードの歴史そのもので、数多くのアイコンとなる写真を撮り続けてきた人だ。一方、スコット・A・サンタンジェロは、メディア「Arkitip(アーキティップ)」を主宰し、手書きでナンバリングされた限定生産アート・マガジンを中心に、アーティストのプリント作品、アパレルやアクセサリー、レコーディングまで様々な芸術的な試みを発信し、エキジビジョンやギャラリーの展示を世界各地で行ってきている人だ。二人の対談を通して、二人のスケートボード、メディアに対する情熱が今回どのようにして「IN THE STREETS」で実を結んだのかを読み取ってもらえればと思う。


J・グラント・ブリテン


Arkitipのスコット・A・サンタンジェロ

FLJ 二人の出会いから聞きたいのですが。
スコット・A・サンタンジェロ(以下、スコット) 僕がグラントの写真のファンで、一緒にプロジェクトをやろうと思って連絡したのがきっかけかな。
J・グラント・ブリテン(以下、グラント) スコットがzineを作ろうって言ってきたんだ。何年前だっけ?
スコット 5年前だね。

FLJ それ以来何度か一緒に仕事をしているんですか?
スコット コラボレーションを2回やって、zineを2冊作って、デル・マーをテーマにした新聞を作ったよ。
グラント デル・マー・スケート・ランチの写真を集めたんだ。
スコット そのエキシビションもやった。最初のzineのエキシビションもやったよね。ブレンドンが手がけるNOAHと一緒にTシャツ・プロジェクトもやった。今回は、僕とデイモンは10年以上一緒に仕事をしてきた仲で、デイモンから新しいブランドで何か一緒にやりたいって言われて、このアイデアが出てきたんだ。
グラント 僕もデイモンのことは、弟のダニー・ウェイを通じて数年前から知っていたよ。

FLJ 「IN THE STREETS」のアイデアはどこから出てきたんですか?
スコット 特に何かアイデアがあったというわけじゃないんだ。徐々になんだけれど、グラントが’80年代に撮ったスケートボード写真を使ってTシャツを作ろうっていうことになった。グラントの手書きが素晴らしいことは知っていたから、グラントに何かオリジナルで写真の上に書いてもらって、写真のストーリーを語ってほしいと思ったんだ。そこからさらに、Tシャツを白とか黒にしないで、楽しいカラフルなものにしようってことになった。ボディ、カット、色具合はこだわったよ。デイモンとは、写真選びから始まって、カラー、ハーフトーン(注:画像をドットで表現すること。網点)、ボディのカラーまで一緒にやった。
グラント 僕自身、大きなハーフトーンは大好きなんだ。デジタル時代の今、ハーフトーンってあまり見かけないよね。スゴくアナログな感じだし、’80年代の楽しいデザインなのがいい。

FLJ 今回Tシャツになったグラントの写真は6点ですよね。膨大なアーカイブの中から今回この6点を選んだポイントは?
グラント 写真をまとめてプレゼンに出したんだよ。そこから相談しながら、どの写真にしようか決めていった。今回の6点の写真はどれもオリジナルがモノクロ写真なんだ。僕自身が好きな写真もあれば、多くの人が好きな写真もある。写真はどれもクラシックなものばかりだから、僕というフォトグラファーをよくレペゼンしているし、僕が「黄金時代」と呼んでいる時代のスケートボーディングもレペゼンしている。バーティカルであろうと、ストリートであろうと、’80年代のスケートボーディングなんだ。どの写真も僕の誇りだよ。それに被写体であるスケーターもみんな大好きなヤツらだしね。

FLJ 6点の写真のスケーターは誰ですか?
グラント ジム・シーボー、ギャリー・デイヴィス、ナタス・カウパス、クリスチャン・ホソイ、スティーヴ・ロッコ、ニール・ブレンダーの6人。ニール・ブレンダーの写真はけっこうレアなんだ。昔、トランスワールドに掲載したことがあるんだけど、その後、2年前まではあまり出さなかった写真でね。暗室で現像して復活させた写真なんだ。
FLJ 例えばですが、このジム・シーボーの写真を撮影した時のストーリーを聞かせてもらえますか?
グラント 1986年のことで、僕はサンフランシスコに行った。「Pro Spotlight」のページ用にトミー・ゲレロを撮影するためにね。トミーとクルージングしていたら、シーボーとブライス・カナイツ他何人かが合流して、サンフランシスコの街を、地元のスポットを攻めながら撮影をしたんだ。この写真と同じスポットでトミーも撮影しているよ。だけどその時の撮影で僕のお気に入りになったのは、このシーボーの写真なんだ。シーボーの写真ってあまり見ないよね。シーボーは昔も今もトミーのベストフレンドで、シーボーがデラックスをほぼ回している。この写真のシーボーはライフズアビーチのパンツを履いてるし、髪型を見ても’80年代だってわかるよね。と同時に、この写真は時を超えている。ウォールライドにしても、2~3年前から復活して、今またウォールライドがクールだっていうことになっているからね。

FLJ 二人とも仕事としてメディアに携わっていますが、子供の頃、どういう雑誌やメディアが好きで、どういうインスピレーションを得て、メディアの仕事をしたいと思うようになったのですか?
スコット 僕はシカゴで育ったから、最初は建築に惹かれた。建築(アーキテクチャー)が好きだから自分の会社もArkitip(アーキティップ)っていう名前にしているくらいなんだ。印刷物、書籍、雑誌が大好きだったから、アートディレクターの仕事に就いたんだ。それである時点で、自分のメディアをやりたいと思うようになって、今に至るってわけさ。
グラント 僕が子供の頃、スケートボード雑誌なんてなかったし、雑誌の仕事をするなんて考えたこともなかった。雑誌は「MAD」が大好きだったね。雑誌で仕事をするようになったのは、写真を撮り始めてからだ。それでトラッカー・トラックスのラリー・バーマとペギー・カズンズがトランスワールドを立ち上げるのを手伝ったんだよ。そこで僕はフォト・エディターとなって、数多くの写真を撮影した。最初の2~3年のトランスワールドの写真はほとんど僕が撮影したものだ。そこで写真を通してグラフィック・デザインにも興味を持つようになった。写真を通して興味を持ったものは多いよ。すべてはデル・マー・スケート・ランチで写真撮影をしたところから始まったんだ。

FLJ グラント以前にはスケートボード写真ってほとんど誰もやっていなかったし、参考になるものがなかったわけですよね?どのようにしてスケートボード写真のスタイルを作っていったのですか?
グラント 始めた頃は特に自分のスタイルなんてなかったよ。僕は学校ではアートを専攻していて、スケーターで、スケート・パークで働いていた。ルームメイトのカメラを借りて写真を始めて、それでハマった。でも本当にハマったきっかけは、暗室での現像だった。現像を自分でやるようになってから、より写真を自分でコントロールできるようになったんだ。露出とか、コントラストをつけた現像とかね。写真の構図とかも、普通の写真や昔の写真の本を読んで勉強して、そこから得たものをスケートボード写真の撮影に取り入れた。例えば、スケートボード写真でもグレーのモノクロ写真があったっていいんじゃないか?とかね。良いスケートボード写真じゃなくて、グレイトなスケートボード写真を撮りたかった。モノクロ写真でトッド・スワンクをトランスワールドの表紙にしたのは良い例だよ。そういう写真はそれまで誰も撮ったことがなかった。あの表紙はスケートボード雑誌のあり方を変えたと思う。それまでの写真は、空を背景にスケーターが大きなアクションを見せているものばかりだった。だけど、あの表紙の写真は、移動手段としてのスケートボード、ヴァイブス、自由といったスケーターのエッセンスをよく伝えているよ。スケーターみんなが必ずやるプッシュの写真だし、「あいつはどこに行くんだ?」って問いかけたくなる。そんな風にして、誰もがあの写真とつながることができたから。

FLJ グラントはトランスワールド時代、フォトエディターとしてどのようなフィロソフィーを持っていましたか?
グラント とにかくスケートボード写真を他の写真と同じくらいクオリティの高いものにしたかった。スケートボード版ナショナルジオグラフィックを作りたかったんだ。クオリティの高い写真を見せて、写真を見た人がスケートしたいと思わせたかったんだ。「あの写真を見て初めてスケートボードをやろうと思いました」って、今でも言われるよ。長い人生の中で一枚のスケートボード写真をちゃんと覚えておいてくれるんだ。最高だよね。

FLJ スコットはArkitipを立ち上げた時、何を表現しようと思ったのですか?
スコット 自分自身のメディアをやりたかったのと、今までになかったコンセプトでアートをサポートしたかった。そのコンセプトっていうの
は、雑誌のために作られたアート作品を掲載する、そんな雑誌を作って、限られた部数でギャラリーや美術館でのみ販売するということだった。当時僕はまだ20代だったから、ギャラリーの運営なんてできなかった。だから雑誌をギャラリー代わりにして、手頃な価格でアートを提供しようと思ったんだ。それで、いくつかつながりがあったギャラリーに置かせてもらって、雑誌の販売を始めることにした。それで今に至るというわけだよ。
FLJ Arkitipが面白いと思うのは、一つのフォーマットに限定されていないところですね。
スコット 印刷物、マルティプル、シャツもやってるからね。どれもアーティストと一緒に作っているんだ。

FLJ 雑誌作りをやってきて、最高なことと最悪なことは何ですか?
スコット 最高なことは、仕事を通じてたくさんのクリエイティヴな人と関われること。最悪なことはビジネスとして回す部分かな。ビジネスは金儲けだからね。
グラント 最高なことは、仕事で旅ができることだね。あと、今もまだ写真撮影が大好きなこと。今もプールの横に陣取って写真撮影をやるよ。昔はフィルムを現像に出して戻ってくるのを楽しみにしていたけれど、今は「帰ってフォトショップをやらなきゃ」って感じで、その写真を他の人と共有するのが楽しい。最悪なことは、スケートボード雑誌の経営の手伝いだね。ビジネスは本当に苦手なんだ。僕は楽しいことが大好きで、仕事のプロジェクトは好きだけれど、経理とか弁護士とかは苦手だ。

FLJ 今回、Tシャツだけじゃなく、zineも作っているんですよね?
スコット こういうイベントをやる時、zineの無料配布も行うんだ。オープニング・レセプションの来場者だけが入手できるようにしてね。それに、ショーで写真を買えない人も、zineには写真が掲載されているから家に持ち帰って楽しんでもらえるからね。
グラント ’80年代って、どのプロスケーターも自分のzineを持っていたんだよ。ランス・マウンテン、ジョン・ルセロ、トニー・ホーク……。僕もzineを作っていたしね。zineだと自分の友達、クルーを載せることができるし、もっとパーソナルなところがいいんだ。
スコット 僕にとっては印刷物にハイレベルとかローレベルとか関係ない。パッケージの仕方が違うだけだからね。zineは楽しいし、大好きなんだ。

FLJ 今後の予定は?
グラント コーヒーテーブル・ブックを作っているよ。コ10年間ゆっくり取り組んできて、誰かに導いてもらいたいなと思ったんだ。僕の家のガレージは写真だらけでね。何年もいろんなプロジェクトで使った写真が入り乱れている。もうカオスだよ。
スコット グラントの本ってまだないんだよ。だから一緒に本を作ろうって提案したんだ。僕がプッシュするからやろうって。
グラント ビジネスの話はしたくないから。僕がやりたいのは写真を選ぶことだから。
スコット 今一緒に本のクリエイティヴ・ディレクションを話しているとろだよ。来年には出したいと思っている。
グラント 来年だといいね(笑)。

FLJ プッシュしないと(笑)。
グラント この前ガレージに丸2日間こもったんだけど、何も進展がなかったな。見つからない写真が多いんだ。未返却の写真も多いしね。例えば、スティーヴ・キャバレロのLAXバンクでのフロントサイド・エアの写真にしても、今あるのはオリジナルの写真じゃないんだ。あと、VANSが何年も使ってる写真で、zineにも載っている、キャバレロのアップランドでのバックサイド・ボンレスの写真。何年もオリジナルのネガフィルムが見つからなくて、2~3週間前になってやっと見つかったんだ。ネガのスリーブに逆さになって入っていたから気がつかなかった。だから見つけた時は感動したね。あと、当時は好きじゃなかったのに今は好きになった写真もある。例えば、30年前にスパイディーっていう、いいスケーターなんだけど、それほど人気がなかったスケーターがいた。彼の写真は当時は使えなかったんだけれど、今なら使える。そんな写真もあるんだよ。

FACT. JAPAN
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